さくらんぼ語訳研究室
──あなたならどう訳す?──

ぜひメールでお寄せください。


さくらんぼ語訳の制作過程では、何度もいろいろな壁にぶつかりますが、
特にムズカシイと感じているのは、
原文に忠実にありたい、という気持ちと、
みんなに分かりやすく訳したい、という気持ちが
ぶつかるときです。

そんなとき、さくらんぼ語訳では、
後者、つまり、分かりやすく訳すことを優先しています。
なぜなら、前者を優先する現代語訳や、授業は、山のようにあるし、
後者こそが、さくらんぼ語訳の本来の目的だからです。
ですが、紫式部のせっかくの素敵な表現を
ときには無視してしまうこともあるわけで・・・。
なかなか割り切ることができず、頭を悩ましています。

そこで、この研究室で、さくらんぼ語訳をご覧の皆様の知恵を拝借し、
先に挙げたモンダイを何とか両立できないものか、と考えました。
私のぶつかった壁をいくつかご紹介していきますので、
ぜひ、「私ならこう訳す!」などなど、気軽にご意見をお寄せください。

☆ ☆ ☆

特記していないものについては、
辞書・・・旺文社「高校基礎古語辞典コンパクト版」、
本文・・・岩波文庫「源氏物語」山岸徳平校注、
現代語訳・・・中公文庫「(谷崎)潤一郎訳源氏物語」
を参考にしています。


No.001 『桐壺』巻
桐壺の更衣が亡くなり、帝も、桐壺の母も、悲しみにくれる。そんな折、若宮源氏を宮中に招こうと、帝が、靱負の命婦を母君のもとへ使いにやる。命婦と母君は、ひとしきり桐壺の更衣の思い出にひたり、夜も更け、命婦が宮中へ帰ろうという場面。

『月は入りがたの、空清う澄みわたれるに、風、いと涼しく吹きて、草むらの虫の声々、もよほし顔なるも、いと立ち離れにくき、草のもとなり。』

さくらんぼ語訳:月はもう沈みかけて、空はすっきりと澄みわたり、風がとても涼しく吹いています。草むらの虫たちは、いかにも涙を誘うような声を響かせています。

訳者コメント:「もよほし顔」は、辞書によると「うながすような様、誘い出すようなさま」。なにを「うながす」のか、については、本文中に「(涙を)もよほし顔なるも・・・」と注書きがあり、潤一郎訳では、「草むらの虫のこえごえの哀れを誘い顔なのも、立ち去りがたい風情なのです」とあります。いずれにせよ、「虫が涙や哀れを誘うかのように鳴いている」「虫の声が涙・哀れを誘う」という意味になります。「〜顔」という表現を訳にも反映させたかったのですが、「哀れを誘い顔」というのも、どうかと思って、結局、「〜顔」という表現を使うことはあきらめることにしました。でも、潤一郎もきっと、この「〜顔」という表現にこだわりたかったのでしょうね。多少無理があるように思えるのに、使っているあたり・・・。


No.002 『桐壺』巻
桐壺の更衣の死後、帝は思い出にひたる。

絵にかきたる楊貴妃のかたちは、いみじき絵師といへども、筆かぎりあれば、いと匂ひなし。太液の芙蓉・未央の柳も、げにかよひたりしかたちを、唐めいたる粧ひは、うるはしうこそありけめ、なつかしう、らうたげなりしを、おぼし出づるに、花・鳥の、色にも音にも、よそふべき方ぞなき。

さくらんぼ語訳:絵に描いた楊貴妃の姿は、どんなにすばらしい画家でも限界があるので、あの気品や匂い立つような美しさを再現することはできません。太液池(たいえきち)の芙蓉の花や、未央宮(びようきゅう)の柳の枝にたとえられる楊貴妃が、中国風の衣装でキメた姿は、それはさぞ美しかったでしょう。でも、帝は、桐壺の更衣の「ずっとそばに置いときたい!」っていうようなかわいらしさを思うと、花や鳥、・・・色にも音にも、何にもたとえることなんてできないのです。

訳者コメント:「なつかし」という古語は、私がもっとも注目している古語です。英語と同様に、古語にも、現代語に置き換えられない単語がいくつもあります(代表的なものが「あはれ」「をかし」)。私は、それらの言葉のもつニュアンスを古典文学の中の用例を紐解きながら研究する、という、とても地味な作業を大学の卒論で研究しました(ちなみに、その時対象とした古語は「つみ」)。「なつかし」という言葉は、まさにそれで、現代語には、「なつかし」の意味とニュアンスを表す単語はありません。それでいて、「なつかし」としか言いようのない気持ちを、現代に生きる私は、何度も体験しています。
古語における「なつかし」は、現代語の「(昔が)懐かしい」というような意味ではなく、主に恋人に対して、「離れたくない、心がひきつけられる」というような気持ちを表す言葉です。「なつかし」の語源は「なつく」。・・・現代語でいう「(犬や猫が、人に)なつく」であることから考えると、分かりやすいかもしれません。

本文では、楊貴妃の「うるはし」さと、桐壺の更衣の「なつかしう、らうた」さを、対比させて書いています。「うるはし」は、辞書によると、「つややかな美しさ、気品」ということです。この二つは現代でいう「キレイタイプ」と「かわいいタイプ」みたいなもので、女性の魅力を表す言葉として、相容れないものかもしれません。

ちなみに、潤一郎訳では、「彼女のなつかしくも愛らしかったのを思い出されますと・・・」と、「なつかし」という言葉をそのまま使っていますが、これでは、多くの古語の正確な知識のない読者は、現代語の「懐かしい」という意味を思い出すのではないかと思うのですが・・・。現代の意味になったのは、中世末ごろからです。


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